画廊匠
画廊匠は、1986年5月から1988年3月までの約2年間自主企画運営画廊として存在した。
当時の沖縄には、画廊が多数あったが、そのほとんどが貸し画廊であった。画廊匠は作家を中心にその支援者を含めて会費制で運営し、作家と評論家が企画し展示を行うスペースとして独自のスタンスで活動を行なった。
私は、この画廊匠に企画担当の会員として設立準備から参加した。その立場から、設立に至る経緯を含め、活動全体を振り返ってみたい。
画廊匠との出会いから企画運営画廊設立まで
私は、1982年4月に琉球大学教育学部に助手として採用され沖縄に来た。最初に住んだのは、宜野湾市大謝名の外人住宅である。
時々、大山にある孔雀楼に食事に行っていて、近くにあった「画廊喫茶 匠 」の看板が気になり入ってみたことがあった。おそらく赴任したその年の秋頃だったと思う。
入ってみたら、喫茶というよりは居酒屋風で、長居はしなかったが入口すぐ横の壁に李朝民画の文字絵が掛かっていて、なかなか良かったので、欲しいなと思った。
まだ大学に職を得て早々だったので余裕はなく、その時は、まぁ止しておこうと帰ったが、やっぱり気になり、後日、購入しようと再訪した。
しかし、もう売れた後だった。お客さんからの持ち込みの商品だったらしく、特に李朝民画を扱っている訳でもなく、たまたま掛かっていたという話で、自分が優柔不断だったのを悔いた覚えがある。
1983年4月に、那覇市の県民アートギャラリーで、自己紹介の展覧会「永津禎三 絵画(1976−1983)展」を開いた。ここに、画廊喫茶 匠のオーナー宮島都紀雄さんが観に来てくださった。宮島さんとはこの時が初対面だった。
宮島さんは私の作品をとても評価して下さって、匠で展覧会をすることになった。『月刊美術』という雑誌で、出身大学の愛知県立芸術大学で非常勤をしていた時の作品が紹介されていたのもご覧になっていて下さった。
画廊喫茶 匠 では、1983年11月1日〜23日に絵画とボックス作品の新作展、1984年12月24日〜1985年1月23日に版画展と、二度展覧会をさせていただいた。
画廊喫茶 匠 は会期が長いのが魅力で、絵画とボックス作品の新作展は3週間あまり、版画展はお正月休みはあったものの、ひと月開けていただいた。
文化人の常連さんも多く、作品を買っていただくことも時々あった。
展覧会を開催している間はもちろん、日頃からよくお世話になっていた。簡単に言えば、よく呑みに行っていた。
1986年の1月か2月頃、宮島さんから相談を受けた。今、ちょっと経営が危ないと。画廊喫茶の継続が難しいとの話だった。
その頃、出身地の名古屋でグループ展を開催していた時、美術評論の三頭谷鷹史さんや名古屋芸術大学の茂登山清文さんと知り合った。彼らはちょうど『美術読本』という小冊子を発行しているところだった。
そういう交流から、日本各地で新しく起こっていた動き、作家やそのグループが自分たちのスペースを持って活動している、自主企画運営画廊の動きなどを知ることが出来ていた。
宮島さんから相談された時、経営的に厳しいのであれば自分たち作家が月々幾らかずつ会費を払ってその作家たちの自主企画運営画廊としてこの場所を使ったらどうかと提案した。宮島さんは賛成して下さった。
琉球大学に私が来て以降、84年9月に丸山映先生(教養部)、10月に奥田実先生(教育学部)が赴任された。丸山先生は彫刻、奥田先生は陶芸が専門だった。1年半の間に実技系の教員が3名新しい顔ぶれになったことになる。
私が、宮島さんに自主企画運営画廊を提案できたのも、おそらくこの同僚は趣旨に賛同し参加してくれるだろうという展望があったからだ。
もう一人、今の私の妻(当時はまだ結婚前)、禮子は旧姓が照屋で、私が赴任する2年前から、琉球大学に織染の技官として勤めていた。この計画にも賛成してくれていて、何かと相談していた。
沖縄でちゃんと美術批評をできて参加してくれそうな人はいないのか相談したところ、翁長直樹さんという人がいるというので、仕事先の読谷、古堅中学校まで会いに行き、参加してもらえることになった。
その翁長さんから山内盛博、宮島さんからは、1960年代、前衛活動のグループ耕のメンバーだった大浜用光と写真家の大城信吉の各氏を推薦していただいた。
賛同者としては、匠の常連だった宮城信博さん。宮城さんは大著『八重山生活誌』を著した宮城文さんのお孫さんで、当時、都市計画コンサルタントの会社を経営されていた。後にエッセー集『北木山夜話』や小説『弦月』を著された教養人である。
主宰が大浜用光、企画が翁長直樹、丸山映、大城信吉、奥田実、照屋禮子、山内盛博、上地昇、永津禎三、運営が宮島都紀雄、宮城信博のメンバーでスタートした。後に大嶺實清、伊江隆人、吉川正功、斎藤美土、高良勉が加わった。ただ、実際は幽霊会員もいる。
企画展を月に一回開催し、その都度リーフレットを発行することを原則とすることを決めた。
まずは、改装準備の会費を3万円ずつ出し合い、業者に頼んで旧内装を取り外し、床板張りと壁板張りをしてもらった。
壁は厚手のベニヤ板を張るだけにしてもらい、壁塗りは全て自分たちで行なった。改装費用を抑えるためでもあったが、メンテナンスを考えてもいた。
壁面に直接、作品を展示したくても、多くの貸ギャラリーは釘も打てない条件であったから、匠の空間は実験的な展示も可能な自由な空間にしたかった。
まだ大学は、文部省から改組を押し付けられる以前の、のんびりとした時代だった。授業以外はそれほど仕事もなく、充分に研究や創作に時間をかけられる余裕があった。春休みの期間中、ほぼ全ての時間をこの改装に注ぎ込んだ。
スペースは、かなり長細い26.4㎡の展示室と奥に9.9㎡のティールーム。ティールームには米軍払い下げ屋から2台のバタフライ・テーブルを誂えた。