上村 豊

 上村豊さんは、2020年7月10日帰らぬ人となってしまった。まだ54歳だった。痛恨の極みである。

 彼は、2006年に琉球大学に赴任してきたので、私は約14年間、同僚としてずっと接してきた。2019年3月に私が定年退職した後、絵画分野を引き継いでもらっていた。

​ 7月11日の通夜には、名古屋からご両親も駆けつけていらっしゃって、遺されたパソコンの中の、撮り溜められていた写真を見ながら彼を偲び、思わず長居してしまった。

 翌日はご家族でゆっくりしていただこうと思っていたら、喪主を務めていたパートナーの平良亜弥さんから電話があった。

 告別式会場のスタッフの配慮で、会場入り口のスペースで、彼の作品を飾ることができる。研究室から彼の作品を選んで運んでもらえないかという依頼だった。

 簡単な事ではないなと思いながら、私は、妻の禮子と二人で主のいない研究室に入った。

 彼の研究室の壁には、恩師の榎倉康二のポートレートがあった。榎倉氏も若くして東京芸大在職中に亡くなっている。恩師のポートレートと言ってもそれは若々しい写真だった。

 上村さんの作品は、マップケースの中に綺麗に整理収納されていて、予想したよりも作品の選定は困難でなかった。

 壁面に展示できそうな「ドローイング・コミュニケーション展」に出品されていた作品と、やはり活動の中心だった「桐生再演」のドローイングを探した。

 マップケースの中の「桐生再演」のドローイングを見て驚いた。それはとても美しい水彩ドローイングと写真だった。

 上村さんの採用時のポートフォリオでその存在は知ってはいたものの、実際の作品の美しさまでは認識できていなかった。私たちは作品に見惚れ、夢中で選んだ。

​ やっと運び出すものを選んで、これから告別式会場に向かおうとした時、亜弥さんからLINEがあった。

 「あまり無理をせず。無ければパソコン内にある写真をスクリーンに映写してくださるようです」

 「とんでもない、大収穫! 」と電話した。声で興奮が伝わったようだ。

​ 夕方、会場に着き、作品を広げると、ご両親も喜んでくださった。「桐生再演」のドローイングや写真作品、資料などを置くテーブルも調達していただき、急な対応にしては、なかなか良い展示が出来たと思っている。

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 8月2日に Library & Studio #504 二階アトリエの引越し荷物の整理をしていたら、2011年前島アートセンター解散シンポジウムの時に、上村さんが作ってくれた、Single Malt Tasting Bar Maejimaの全案内ハガキを印刷した大垂れ幕を発見した。一階入口正面のブロック壁に貼り付けてみた。なかなかに壮観である。

 上村さんが赴任したのが、ちょうど私が副学部長に指名された頃で、前島アートセンターの理事を続けるのが難しくなり、上村さんに交代して引き受けてもらった。

​ 2011年の解散シンポジウムまでの6年間、本当に前島アートセンターのために尽力していた。解散シンポジウムでの資料整理の奮闘ぶりなど今でも目に焼き付いている。​

 7月13日の告別式でも、コロナ禍で参加の叶わなかった人たちの弔電に桐生での活動で本当に上村さんにお世話になったとのお礼の言葉が溢れていた。桐生でも沖縄でも上村さんはずっと人のために尽くしてきたのだろう。

 8月4日にこの大垂れ幕のことを亜弥さんに報告したら、田中睦治さんからメッセージをいただいたと返信が来た。

 東京芸大油画第2研究室の方が中心になり、榎倉康二先生の奥様が開いている東京のギャラリーSPACE23°Cで上村さんの追悼の展覧会を行う計画があるとのこと。思わず、研究室のポートレートが目に浮かび、胸が熱くなった。

​ 2020年10月10日から上村展実行委員会に参加している。当初は、上村さんの一周忌に展覧会を開催するつもりだったが、新型コロナ感染症の蔓延で予定が何度も変わり、今は、2022年6月17日から7月10日まで、金・土・日開廊の12日間の日程を予定している。

 ほぼひと月に一回開いているZoomでの実行委員会会議は、東京時代の上村さんのことや周りの方々のこと、桐生での活動、その前身であった白州での活動のことなど、具体的な展覧会準備はなかなか進まないものの、上村さんを「識る」ための大切な時間である。

​ また、田中睦治さんと亜弥さんが上村作品の写真撮影を行い、その隣で、私が上村研究室の図書の整理を行うということも数ヶ月続けている。

​ いずれも、上村さんと対話しているような時間だ。

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芸大大学院時代の上村さん(前列左端)その横に榎倉康二氏。四尾連湖にて​(長橋秀樹撮影)

​SPACE23°Cでの「上村展」開催に向けた準備の中で

 私のホームページに上村豊さんを取り上げることについては、いろいろ考えることがあった。

 実行委員会で上村さん追悼の展覧会を行うことを話し始めた初めの頃には、Facebookなどで展覧会について情報発信することも話題に上った。私のHPもそのような役割を担えるかもしれないと考えたこともあった。

 しかし、「FOCUS」で取り上げた他の方々のページを作るうちに、私はこの方々とのこれまでの関わり(展覧会で作品を観たり、お宅にお邪魔したり、研究について意見を交わしたり)を通して、自分自身の思索を深め、更新しているのだと気付いてきた。この方々との出来事を思い出し、それについて改めて考えてみることは、実に豊かで温かい気持ちになれる時間だった。

​ 上村さんの遺された仕事については、いずれ沖縄でまとまった形で展覧会を開催することを夢見ている。それまで(もしかしたらその後も)このHPで上村さんと語り続けていけたら…、と思う。

​ おそらく、とりとめのない記述になるだろうが、まずはSPACE23°Cでの「上村展」開催に向けた準備の中で気付いた事柄を書き綴っていこうと思う。

受験生時代の上村さんのこと

 田中睦治さんが上村さんの受験生時代、河合塾での先生だったこともあってか、Zoom会議では、受験生時代の話もよく出てきた。日比野ルミさんは、高校の同級生だったので「上村くん」と呼ぶ。その日比野さんから「上村くんの浪人時代のデッサンが見たい」というリクエストがあったので、私がスマホで撮影して送った。(ちゃんとした写真は田中睦治さんが撮影している)

​ ここまで描けないと入学できないのかと呆れるほどの超絶技巧の受験デッサンと一緒に、少し異質な、厚紙に描かれた蝉の作品があった。

​ もちろん上手すぎるほど上手いのだが、私が知っている沖縄での上村さんの感覚とほぼ同じものを感じる。これが受験生時代のものだったのなら、もう、こんな感覚が備わっていたのか…。別の意味で凄い。​

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skskトークのDVD

 上村さん出演の「skskトーク04」(2013年7月14日)のDVDを石垣克子さんが提供して下さったので、実行委員会のメンバーで共有した。(2021年5月頃)

​ トークの中で、上村さんは、この時 sksk で行われていたdraw2展に出品していた「緑の鉢」シリーズのコンセプトについて次のように語っていた。

「緑の鉢」ドローイングのコンセプト

 「緑の鉢」というのは、吾妻公園プロジェクトという、もう10年以上前に始まった、1997年からなので、20年近く前に始まったものから、モチーフとしてはずっと続いています。

 

 このsksk draw2 展に展示している、右端の作品が一番古いものですが、あれも「桐生再演」が終わったずいぶん後の2005年くらいに京都で開催した「庭に水を遣る」という展覧会の時の直前に描いて、あれを描いたときに初めて「緑の鉢」というタイトルを付けたのです。

 

 鉢が並んでいる状態のドローイングを、なんか、たどたどしく描いたんですけど、単純な事ですけど、鉢と鉢の間の形も鉢なんだなと思ったんです、その時ね。

 もともとは隙間として緑を塗っていたんです、抜ける空間として。でも、あっ、こっちが鉢だなという気がしたんです。絵を描いているときに。

 

 「緑の鉢」というのは、緑が植わっている鉢じゃなくて、隙間の緑の方が鉢だよって意味なんです。そのちょっと逆転しているようなものが、自分の制作のひとつのモチーフ。

 さっきの「吾妻公園プロジェクト」の、鉢を温室から移動する。温室は空っぽなんですけど、そこにあったものは、どこにあるかは分からないんだけど、普通の街の中に並べられているはず。

 というようなことと、絵として逆転しているようなことが噛み合って、ドローイングのモチーフとしても「緑の鉢」というのが出てきたということです。

 

 時が移って沖縄に来て、去年のドローイング展に出すということで、全然違う動機で描いていたんですけど、作っていたら、また鉢が…、無意識にというか多分意識しているんですが、そういう形に見えてきた。

 これは、作っている本人にとっては凄く面白いことですけれども、そういう面白さを、普通のドローイングの形として見せられないかなというのが、この「緑の鉢」シリーズのドローイングの基本的なコンセプトです。

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DM案の話し合いをきっかけに考えたこと

 昨日のZoom実行委員会で、やっと展覧会に向けての具体的な内容の検討に入った。(2022年3月13日)

 6月17日からの会期、11日、12日の搬入展示なので、さすがにもういろいろ決めていかないと間に合わない。

​ 展示のプランについては、長橋さんと景山さんが提案して下さった内容をベースに、沖縄側4名で1週間前に集まって決めた提案がほぼ了承されたので、これから個々の作品選択に入ることになる。

 DMについても話し合い、日比野さんが印刷原案を担当してくださることになった。使用する図版は右の「路地の構造2004」の写真になった。

​ この話し合いの中で、田中睦治さんは上村さんの遺したポートフォリオの「主作品について」に書かれた内容から、この写真を推薦した。そこに書かれていたのは以下のようなものだ。

通    トオリ

表    オモテ

角    カド

内/家  ウチ

庭    ニワ

街の構文を読み取りたい。そして、その文法を捉えたいのだ。

そんなことを考えながら歩き回っているのだが、私の眼前に現れるのは個々の事物と風景や「ものがたり」ばかり。それらは「街」と私の意識との間で反射を繰り返すばかりで、「私」の入り込む余地などこれっぽっちもないのだ。

私の求めているのは、例えば翻訳者、2冊の国語辞典を携え、その2ヵ国語の間に引き裂かれる、翻訳者の身体(からだ)なのかもしれない。

​ この文章を読んで私は、ジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』を思い浮かべた。不自由さを逆に創作の源泉にしようとする意思に、共通する美しさを感じたからではないかと思う。

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「庭に水を遣る」2005年の作品について

 3月16日に琉球大学に四人が集まり、13日のZoom会議の内容を確認して今後の作業予定を話し合った。その後、まだ撮り終えていなかった作品の撮影を行った。

​ この日撮影したのは、先日沖縄側から追加展示を提案した、2005年京都のギャラリーそわかで開かれた個展「庭に水を遣る」の出品作だった。

​ skskトークで上村さんが語っていた「緑の鉢」シリーズのドローイングが含まれていて、この後、2010年のドローイング・コミュニケーションにも出品していた水彩4点を23°Cでも展示すれば良いのではないかと、話し合いながら撮影した。

 私は、「sksksトークのDVD」での上村さんの発言〈「緑の鉢」ドローイングのコンセプト〉から、そこで話されていた「右端の作品」は、シリーズの中で一番シンプルな、横一列に三つのピンクの鉢が並び、間に出来た二つの空間が緑の鉢になっている作品だと思ってその図版を掲載した。

 でも、亜弥さんに「主催者の石垣さんに会場写真が残っていないか聞いてみたら」と言われた。確かに、それなら間違いない。

 この個展には、「緑の鉢」シリーズの水彩ドローイングの他に、「窓」シリーズと「グラス」シリーズの水彩ドローイングの他に、やや小ぶりのスケッチ5点と「鉢の配置についてのエスキース」12点組がフロッタージュ作品とともに展示されたようだ。

 上村さんの遺したポートフォリオには「主要作品一覧・概要」にこの「庭に水を遣る」について次のような記述がある。

 3月から4月にかけ、桐生森芳工場に滞在して制作をおこなった。同施設の庭をモチーフとした連作。放置された踏み石や庭石、井戸の櫓などを題材にフロッタージュを行い、また、庭の風景を描いた水彩によるドローイングなどを制作。展示会場に再構成した。いわゆるホワイトキューブでの展示は、初めてに近い体験で、固有の「場所」をテーマにした作品をどのように移行して展示するかで苦労をした。

 しかし、ポートフォリオの図版のページには、「鉢の配置についてのエスキース」12点組は2002年制作とあった。このエスキースは写真が小さくてあまり気にかけていなかったのだが、今回の撮影でしっかりと見ることができた。

​ このエスキースの一枚には、「庭におけるインスタレーション 緑の鉢」とはっきりと書き込まれていた。

​ つまり、skskトークで「2005年くらいに京都で開催した『庭に水を遣る』という展覧会の時の直前に描いて、あれを描いたときに初めて「緑の鉢」というタイトルを付けた」というのは、本人の錯覚だったのか、あるいはインスタレーションのエスキースへの書き込みであって「タイトル」ではないということなのだろうか。

 どちらにしても、すでに2002年、「路地の構造2002(山の温室/街の倉庫)」の頃、「緑の鉢」という概念はすでに存在していたということになる。

 さらに興味深いのは、このエスキースの「「庭におけるインスタレーション 緑の鉢」の上にある図には「鋸屋根 空の鋸屋根」と書き込まれている。どちらもが、物と空間の関係、空間の方も物と同様のものであるかのように「視る」という概念が明確に表明されているのだ。

 私は、この「鉢の配置についてのエスキース」からも数枚、23°Cの展示に加えたくなった。

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draw 2 での展示作品が判明

 石垣克子さんが、draw 2 展の会場写真を送ってくれた。​よくぞ、探し出してくれた。そして、この写真は私にとっての「意外」に溢れている。

 まず、右端の2点である。skskトークで語っていた2005年の作品は、この2点だった。京都のギャラリーそわかで展示されていた「緑の鉢」水彩ドローイングの5点のうち、実に意外な2点の選択だった。

 私の予想していた作品は、最もシンプルな横一列の作品だった。次に、もしかしたらこちらかもしれないと思っていた作品は「窓」シリーズと一緒に展示されたものだ。その2点を右に示そう。おそらくこの2点は「緑の鉢」水彩ドローイングの2005年作品の最初と最後だと予想している。

​ 2013年の draw 2 展に、最もコンセプトが明快な最初の作品と、最もそのコンセプトを展開したであろう最後の作品を出品せず、中間的な2点を選んだのは何故だろう。

​ 次の「意外」は、この2005年の2点の「緑の鉢」ドローイングの展示方法である。​このドローイングは、茶色のクラフト紙を台紙にしていて、draw 2 展では、そのクラフト紙の台紙のまま直に壁に展示していた。

 特に上のドローイングの台紙は、端がちぎれたような状態である。上村さんの研究室のマップケースから、この状態で見つけたのだが、まさかこのまま展示したとは思っていなかった。

 それは、2010年のドローイングコミュニケーション展(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館)で展示されていたときには、大きなカルトンにこのクラフト紙の台紙ごと4点が配置された展示方法だったからだ。

​ クラフト紙のちぎれたような状態や、不揃いな感じを同系色のカルトンに収めることで目立たなくしているものと思っていた。

 東京のSPACE23°Cでの展示では、白い壁にこのクラフト紙の台紙は目立ちすぎるので、ドローイングのみにするよう台紙を剥がせないか話し合っていたくらいである。

 上村さんは、そんなことは気にしていなかったようだ。

​ 沖縄に来てからの「緑の鉢」ドローイングの右の作品は、このskskでの draw 2展の後、2013年のドローイングコミュニケーション展(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館)で展示されていた。

​ 同じ作品なのだが、違っている。

​ 緑っぽい矩形の縦横比が違っている。一瞬、別作品なのかと思ったが、よく見比べれば同じ作品である。

 上村さんのこの頃のドローイングは、一旦、線や水彩での着色の後、横に長い帯状に作品を切り、左右に交互にずらしながら張り込んでいく手法をよく行なっている。線は、大工さんが墨壺で材木に墨付けをするように藍色の絵の具で線を施すことが多い。実際の制作現場を見たわけではないが、おそらく藍色の絵の具に浸して絵の具を染み込ませた糸をピンと張り、それを摘み上げて手を離すとこのような墨付けのような表情の線を得られるのだろう。少し滲んだような線の周りにかすかに絵の具が散っている、ニュアンスに富んだ線である。このため、帯状の着色された紙片はひとマスごとに左右にずらされて、まるで編まれたかのような厚みを感じさせるイリュージョンを生んでいる。

 さらに、この帯状の紙片の元になる着彩を施すとき、その紙の下に水彩紙を置き、四方にはみ出した筆跡を作品として活かしている。

 つまり、sksksの draw 2 展で出品した状態は、帯を5本貼らない状態だったのである。

​ 私は、この draw 2 展の状態が絵画的な感じがして、かつ、システムが分かりやすくて好きである。何故、この後のドローイングコミュニケーション展では、全ての紙片を貼ったのだろう。才気に走りすぎるのを抑制したのだろうか。

​ この時に上村さんは何を考えていたのだろうか、想像は無限に膨らみそうで実に楽しい。

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draw 2 展での上村作品 (石垣克子撮影)

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私が予想していた2点

実際に展示されていた2点

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2010年ドローイングコミュニケーション展での展示

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「緑の鉢」(2012-2013年)2013年skskの draw 2 展での展示

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2013年ドローイングコミュニケーション展での展示

SPACE23°C(東京展)の展示作品を選ぶ

 4月4日、5日に沖縄の実行委員会メンバー4人が集まって、展示作品を選んだ。507室の上村さんが教室を仕切るために立てた壁面がちょうど良い大きさだったので、ここに順番にギャラリーの各壁面ごとに仮展示しながら選んでいった。

 ギャラリーに入ってすぐ左手の第一壁面(D壁面:2.7m)に、2005年「庭に水を遣る」(京都ギャラリーそわか)の作品を展示することは予め決めていたので、その中のどれにするかを話し合った。

​ 水彩ドローイングは、やはり、skskで本人が選んで展示していた2点にして、「鉢の配置についてのエスキース」(2002年制作)の12点から8点を選んだ。

 次の第二壁面(E壁面:2m)には、上村さんの遺したポートフォリオのA4サイズのページを4枚、〈無題(自宅・浴室におけるインスタレーション)1989年〉〈無題(両国駅構内におけるインスタレーション)1993年〉〈無題(桐生市有鄰館の扉への制作)1994年〉〈園六織物工場の9日間 1995年〉に決まった。

 A4版を4枚の展示だけでは寂しいかと当初は思ったが、インスタレーションの写真に力があるので4枚で綺麗に纏まっていた。D壁面に奥行き60cmの資料台を壁面の端から端まで設置してもらうことにしたので、これ以上展示するのは厳しいだろう。

​ ギャラリー正面になる第三壁面(A壁面:4.8m)には、〈吾妻公園温室プロジェクト〉と〈路地の構造〉を中心に選ぶことを決めていた。

 1997年のドローイングには、〈「吾妻公園 温室プロジェクト」プランドローイング〉とそれ以前のものと思われる〈プランドローイング(桐生市 水道公園・観月亭におけるインスタレーション〉の二つのシリーズがあった。

 両方とも魅力的なドローイングばかりだったのだが、今回は「吾妻公園」に絞って展示することに決めた。1997年(桐生再演4)のものは、ポートフォリオからの2枚とドローイング11点にした。1999年(桐生再演5)のものは、ポートフォリオから1枚、水彩紙のドローイング4点にした。

 その右に(今回の仮展示では壁面の4.8mがとれなかったのでここでは右壁面)〈路地の構造2002(山の温室/街の倉庫〉、〈路地の構造2004〉それぞれポートフォリオから2枚ずつを選んだ。

 第四面(B壁面:4m)には、「NEWS 2002」展(東京藝術大学大学美術館・付属陳列館)で展示された〈路地の構造ドローイング展示 2002年〉の大型カルトンをそのまま展示することに決めていた。この壁面には、この大型カルトンが収まるよう幅171cm、奥行き10cmの棚を設置してもらう。B壁面とC壁面の角にはモニターが設置され、「skskトーク04」が放映される。〈路地の構造〉のドローイングと関係がありそうな写真(両掌を広げている)を展示することも話題にあがったが、大型カルトンの横では違和感があり、何か違った意味まで出てきそうなのでやめにした。

 最後に、第一壁面(D壁面:2.7m)に設置してもらう資料台の上の展示を相談した。当初は、『うみしまノート』や上村さんが沖縄で著した論文の掲載された冊子、装丁を上村さんが担当していた琉球大学附属図書館発行の「びぶりお文学賞」の作品集1〜13号なども展示したいと思っていたが、いざ並べてみたら、桐生再演のカタログだけで一杯になり、両国のリーフレットだけを加えることにした。

 展示作品の選択は、かなり難航するのではないかと予想していたので、この後、11日と12日も確保していたのだが、意外にもすんなりと2日間で決めることができた。1年半、毎月話し合ってきたから、四人の間で意思の疎通ができていたからだと思う。

 新型コロナ感染症蔓延の期間に、ポートフォリオと吾妻公園温室プロっジェクト冊子を直接手に取って見ていただくことが出来ないので、会期中YouTube配信するビデオを吉田先生と制作した。

 当初は、ページターンのエフェクトを使って編集したらどうかと考えていたが、亜弥さんのアドバイスで、実写で良いのではないかということになった。

 展覧会終了まで期間限定で、このHPにもビデオをアップするのでご覧いただきたい。

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上村豊 ポートフォリオ

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吾妻公園温室プロジェクト

全て荷造りして送ったはずだったが…

 5月23日から作品の梱包作業を始め、27日に2個口の宅急便で、静岡県の長橋さん宛に送り出した。作品は大型カルトンにまとめ、復路まで耐えられるようプラダンで荷造りした。2日後、富士山を背景にした美しい写真と共に「無事到着」のメッセージが届いた。これで一安心。あとは、6月5日(日)に最後の上村豊展実行委員会Zoom会議で確認作業をして、11日(土)の飾り付けのために東京に行くだけだと思っていた。

 ところが、6月2日(木)。最近、毎週木曜日には、沖縄県立博物館・美術館で内間安瑆の作品を閲覧させてもらっている。そこに、LINEの着信音が立て続けに鳴り、何事かと思って見たら、亜弥さんからの興奮気味の文面。

 なんと、これまで探していたのになかなか見つけられなかった、skskで展示された「緑の鉢」2012-13年の2点が見つかったという連絡だった。

 石垣克子さんは、現在、琉大で上村さんが担当していた絵画の授業の非常勤講師をしてくださっているが、その授業を行なっている507教室の入り口ドアの横に置いてあったのを見つけたらしい。

 しかも、このタイミングで!

 まるで、「おーい。これも持って行け!」って上村さんが言っているみたいだなと思った。

 そのうえ、送ってくれた写真は、なんと帯を5本貼っていない状態。

 〈私は、この draw 2 展の状態が絵画的な感じがして、かつ、システムが分かりやすくて好きである。何故、この後のドローイングコミュニケーション展では、全ての紙片を貼ったのだろう。才気に走りすぎるのを抑制したのだろうか。

 以前、こんなふうに書いていた。つまり、skskのdraw 2 展の方がドローイングコミュニケーション展の後だったのを間違えていた。

​ これについてのエピソードもありそうというので、後から石垣さんに連絡しようと思ったら、石垣さんから先にLINEが来た。〈ドローイングコミュニケーション展は会期が2013年5月15日〜19日、skskのdraw 2 展は6月29日〜7月20日。〉

 沖縄県立博物館・美術館から帰宅し、早速、LINEで返信した。

〈507室で「緑の鉢」が見つかったことは亜弥さんからも連絡がありました。そして発見の写真も! それを見たら、下5列が外れた状態(私の好きな状態)だったので、二度ビックリ。でも、私が展覧会の開催順を間違えていたのですね。辻褄が合いました。

 ところで、なぜ外れたのか(外したのか)もう少し詳しく知りたいので、電話してもよろしいでしょうか? 〉

 電話で確認したところ、意図的に外したわけではなく外れてしまったよう。

 draw 2 展のDMに上村さんの作品写真を使おうと思って、撮影に行ったら、外れてしまっているのを目撃したらしい。

 

 この状態を良しとしてその外れたままでdraw 2 展に出品したのは間違いないにしても、これを肯定的に捉えていたのか、修復するには問題があったためなのかははっきりしない。

 今回発見したフレームの箱の中には、その5本の帯も入っていた。あいにく白蟻が入ったらしく数箇所は汚れ欠損していた。

​ でも、skskの展示の時には、それほど傷んでいなかっただろう。私は、上村さんが「この状態もまた良し」以上に、こちらの方が良いと思っていた(つまり、私の価値観と近かった)と信じたい。

 6月5日、上村豊展実行委員会Zoom会議では、結局、2点とも搬入し、どのように展示するかは、搬入当日、現場にいる人に任せてもらうことになった。

 翌日の6日にまた、プラダンを使って梱包し、長橋さん宛に送った。今度の梱包は、結構可愛く出来上がって、気に入っている。

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長橋さんから送られてきた、富士山を背景にした搬入作品の梱包荷物

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亜弥さんから送られてきた、発見した作品の写真

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外れて箱の中にあった、ドローイングの5本の帯

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いよいよ、搬入当日

 6月11日10時に、SPACE23°C会場で搬入飾り付けを始めると決めていた。

 沖縄メンバーからは亜弥さんと私、東京メンバーからは、長橋さん、景山さん、大村さん、横井さんが参加。

​ 亜弥さんと私は、スマホの経路案内を頼りに宿泊先から京急線、JR線、バスを乗り継いで少し早めに到着するつもりでいた。ところがギャラリーのあるはずの所は住宅地の行き止まり。ナビが目的地の後ろ側を示すことはよくあるので表側に回ってみたが見つけられない。しばらく探しても分からないので、犬の散歩中の女性に尋ねた。「ああ、小さなギャラリーね、うちの隣よ」と案内して下さった。

 そこには、通路いっぱいのマイクロバス。これがギャラリーのサインを隠していた。長橋さんが搬入のために勤務先の大学から借りたマイクロバスを停めてあるのを、車庫だと思い、私たちは道に迷ったのだった。

 ちょうどそこに横井さんが到着。10時ぴったりだった。

 ギャラリーでは、すでに、長橋さん、景山さん、大村さんが作業を始めていた。なんと、開始時間を間違えて9時前から始めていたらしい。

 榎倉充代さんへの挨拶もそこそこに、私たちも作業に参加した。皆さん、Zoomでしか顔を合わせていないので直に会うのは初対面。でも、まるで昔からの知り合いのよう。

 まずは、作品の梱包を解き、壁面に仮止めして、中心の高さを決定した。横井さんが持参して下さったレーザー墨出し器が大活躍。

​ 次に、資料台の高さを決めて壁面に固定した。予定していた高さよりやや高め。

 この資料台の上の壁面の作品配置を決めて、全体の高さを微調整。

​ 追加した額装の「緑の鉢」を2点ともモニターの左右に配置できることが分かり一安心。このギャラリーは、初めて足を踏み入れた時には「狭い」という印象だったのに、作品を配置していくと、どんどん収まっていく。コーナーが曲面になっていることも影響しているのかもしれないが、まるでマジック。

 最後に、大型カルトンの位置を全体のバランスを考えて決定し、カルトン台を壁面に固定した。長橋さん手作りの資料台とカルトン台は、古材を利用しているためか、まるで、元々ここに設置されていたかのような馴染み方。流石です。

 ここまでの作業で13時頃。榎倉充代さんが母家から降りていらっしゃって、進捗状況を尋ねられた。「順調です」「これからお昼休憩して、あとは綺麗にマグネットで作品を固定するだけです」

​ 私たちは、ゆとりの表情で、ファミレスに昼食をとりに行った。

​ ファミレスでは、これまでZoom会議に参加していなかった、全く初対面の横井さんから、上村さんの作品について今まで知らなかった情報など伺い、かなりゆっくりと時間を過ごした。

 そして、午後の作業を開始。「あとは綺麗にマグネットで作品を固定するだけ」と思っていたのは甘かった。この作業が実に手間がかかる大変な作業だった。

​ 長橋さんと景山さん、亜弥さんと横井さんの二組で仮止めをマグネットに置きかえて行ったのだが、壁面が固く、画鋲がまっすぐに入らない。苦闘に次ぐ苦闘。

​ 私は、キャプションの担当で、文字を修正してプリント、切り揃えるような仕事だったので、申し訳ない思いで皆さんの苦闘ぶりを記録した。

 それでも、搬入終了予定時刻の18時を少しオーバーしたくらいで、無事1日で搬入飾り付けを終えることができた。

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搬入翌日、上野に(二度も)行った

 Zoom会議での話では、翌日12日は搬入予備日だったので、11日にギリギリまで展示にかかってしまい、会場の撮影も出来ていないし、大型カルトンのテープが剥がれそうで不安だったので、朝から確認に行こうと思っていた。

 ところが、予備日のことは榎倉さんに伝わっていなかったようで、無理をお願いし、夕方5時に開けていただくことにした。

 それまで時間がたっぷり空いてしまったので、亜弥さんと私は東京国立博物館で開かれている特別展「琉球」を観に行った。

​ 上野公園に着くとコロナ禍はどこに行ったのかと思うほどの人出。フィリピン・エキスポ2022が開かれていた。恐ろしい! 迂回して博物館へ。

​ 「琉球」展はまたこれまでと同じような展示かと思っていたが、初めて見るものが多く楽しめた。特に良かったのは黄天目茶碗の台〈朱漆雲龍箔絵天目台〉。沈金の細かな地模様の上から密陀絵などで龍が描かれていて極めて上品。小堀遠州や松花堂昭乗などの粋な茶人に珍重されていた名品。

 17時にギャラリーに着いた。キュレーターの岡田有美子さんがちょうど東京に来ていて会期中はもう居ないので、展示を観てもらった。岡田さんは、沖縄で上村豊展を行う時には実行委員の中心になってもらいたい人なので、この日に観てもらえて幸いだった。予備日で会期前だけれど、観客第1号。

 亜弥さんが、西村雄輔さんに連絡を入れていた。西村さんは2011年、石井理絵さんと琉球大学へ集中講義に来て下さった。

 2005年から始まった桐生でのYAMAJIORIMONO*WORKSについてお話ししていただいたのだが、このWORKSは現在も継続しているとのこと。

​ 石井さんとはその後結婚され、西村さんは現在、東京藝術大学の准教授。亜弥さんからの急な連絡だったが、ちょうどオープンキャンパスが終わったところで、大学でお会い出来ることになり、再び上野に向かった。

 上野は18時半を過ぎてもフィリピン・エキスポ2022のお祭り騒ぎ。恐ろしい!迂回して藝大へ。西村さんが校門前で待っていて下さった。

 西村さんは、上村さんが助手として勤めていた絵画棟の施設を私たちに見せて下さった。私は昔、田口安男先生の研究室に伺ったことがあったが、施設は全く忘れていた。1階エントランス突き当たりには展示スペースがあった。

 

​ 搬入の日に初対面だった横井さんに、上村さんのポートフォリオを見ていただいたら、1996年の〈無題(東京芸大絵画棟展示スペース壁面への制作)〉の写真を見ながら、上村さんがヴォルフガング・ライプのアシスタントをした話になり、その流れで、黄色の顔料を壁面の上から振り撒き、壁面の微妙な凹凸に顔料が乗っているという仕事もこの壁で行っていたとのことだった。

 ポートフォリオに載っているのは1995年の博士後期課程研究発表展での作品の流れの、壁面へ直接フロッタージュを弁柄色の油絵具で施した作品だったので、横井さんの記憶にある作品のことを西村さんに確認しようと聞いてみた。

 上村さんのポートフォリオのこのページを開くと、亜弥さんが、「あっ、これさっきの1階のスペースですね」と言った。私は「まさか、このスペースには壁画用の壁があるのに」と思っていた。上村ポートフォリオの「主要作品一覧・概要」には以下のように記されている。

​ 〈この壁面の裏側は、壁画工房のアトリエ・スペースである。つまり、もともとは、この面こそが裏側であった。しかし、建物のエントランスホールに面しているのでそちらから見れば表側である。ともあれ、この壁面は大変印象的だ。現在白く塗装し、展示スペースとして活用しているが、何も展示されていないときの方が、はっと立ち止まらされる事が多い。この壁面一面に直接フロッタージュを行ったが、ライトレッドの絵の具により、薄紅色に色づいた壁の変化に気が付いた観者は少なかったようだ。〉

​ 西村さんの発言は衝撃だった。「そうです。壁画用の壁は撤去されました。この写真はとても貴重です」

 上村さんの「主要作品一覧・概要」を読めば、この壁画用壁面をめぐる仕事や思索は、後に「路地の構造」などにも繋がる重要なものであるのは明らかだ。​その壁が撤去されて、今は無い…。

 西村さんは東京藝術大学に収蔵されている上村さんの作品のことも調べて下さった。大学のホームページから検索が可能で、1994年の〈早佐織物工場〉が収蔵されていることが分かった。

 また、西村さんからの提案はとても有難いものだった。それは、上村さんが東京時代暮らしていた千葉県の我孫子から桐生へ追体験の車での移動の提案だった。

​ 助手時代、上村さんは西村さんをジムニーに乗せて一緒に桐生まで通っていた。往路は次に行う計画などの話が主だったが、復路は桐生再演についての思いや反省などの深い思索的な内容の話が多くなったという。

 追体験の車の旅をしてみたら、きっと、上村さんの語っていたことを思い出せるのではないだろうか。変わってしまった風景、変わらない風景を眺めながら、どんな話が蘇り、どんな話が新たに生成されるのだろう。

​ 亜弥さんは、「7月10日の搬出の時にまた東京に来ますけど、8日には着いていますよ」と話していた。まさに善は急げ!?

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​上村豊展、始まる

 ついに6月17日、上村豊展がスタートした。私は妻の禮子と開廊時刻の20分前にギャラリーに着いた。既に榎倉さんは解錠して下さっていて、大型カルトンが無事なのを確認して、会場の撮影を始めた。そこに、長橋さん、横井さんが到着。

 開廊時刻に合わせて来て下さったのは、荒川昭男さんと古山コスミさん。お二人はパートナーで、お話しするうちに、古山さんが岡山でアートイベントの企画をされていることが分かった。

 それは、BENGALART展。江戸時代、赤の顔料「ベンガラ」の産地として栄え、今も瓦や壁などが弁柄色の赤い街並みが残る岡山県高梁市成羽町吹屋地区。ここで開催されているアートイベントとのこと。

https://www.tv-tokyo.co.jp/travel/entry/bwIoo/32310

​ 先日の搬入の時に話題になったのが、上村さんの1996年〈無題(東京芸大絵画棟展示スペース壁面への制作)〉。この作品も1995年の博士後期課程研究発表展での作品もベンガラ色のフロッタージュ作品だった。そして1996年桐生再演3での〈清水工業所旧工場におけるドローイング〉にもベンガラの顔料が…。

​ 最初の来場者から、強く上村さんとの関係を意識させられることになった。

 妻の禮子は織の作家である。禮子は、後から展示に加えられた「緑の鉢」2012-13年を観て、嬉しそうに言った。「絣の糸遣いみたい」

​ この2点の「緑の鉢」が見つかったときも、それ以前の skskでの draw 2 展でも、私はもう一方の「緑の鉢」に注目してしまったのだが、禮子はこちらの作品に興味を持ったようだ。

​ それは、この作品の構造にある。上村さんのドローイングは墨付けの手法による線を施した後、横向きの帯状に切断し再構成することが多い。こちらの作品では、等間隔に7本の帯に切断しているが、上から2,4,6番目の帯は上下を逆にしている。

​ 言葉だけで説明しても分かりにくいので、写真で元の墨付けした状態を再現してみた。

 私は、ちょうど2012年の頃、紅型の型紙の構造を使ったTurbulence Seriesの作品を作っていた。紅型衣装が反物の向きを自在に変えて組み合わせている面白さ、構成の妙を取り上げていた。例に挙げたこの紅型衣装は、反物が左から順順逆逆と使われている。

 私は、上村さんの「緑の鉢」の発想は紅型からだと思い、禮子は絣糸の配列からだと思った。どちらだったのか、あるいは両方だったのかは今となっては本人から確認できないが、いずれにせよ、沖縄での生活から、彼の制作に対する思索が広がり深化したのは間違いないと思う。skskトークで彼はこう語っていた。

 〈時が移って沖縄に来て、去年のドローイング展に出すということで、全然違う動機で描いていたんですけど、作っていたら、また鉢が…、無意識にというか多分意識しているんですが、そういう形に見えてきた。

 これは、作っている本人にとっては凄く面白いことですけれども、そういう面白さを、普通のドローイングの形として見せられないかなというのが、この「緑の鉢」シリーズのドローイングの基本的なコンセプトです。〉

 

 もう一つは意外な事実である。

 横井さんと、榎倉康二のゼミの内容について、「水」や「空気」のように、それ自体が形を持たないものを取り上げる傾向があったという話になった。確かに、上村さんもそういうものへの関心が強かった。

 それで、〈路地の構造2001〉の印象的な両掌を広げた写真も、「水を掬っているところですよね」と聞いた。

 横井さんは、「あれは水を掬っているのではなく、冊子を拡げて支えているのです。冊子を透過して見える手の形です」と答えた。

 2001年の桐生再演7には、横井さんは上村さんと一緒に参加していた。

 「写真を撮るときは、とても苦心したそうです。自分の広げた両掌を撮らなければいけないので。セルフタイマーを使ったそうです。」

​ その支えられている冊子は1997年の〈吾妻公園温室プロジェクト〉の冊子だという。

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最終週に再び東京へ

 いよいよ展覧会も最終週。私は、8日(金)9日(土)10日(日)に再び東京に行き、在廊することにした。

 8日(金)の最初の来場者は、福田尚代さん。福田さんが同級生だったことは、生前に上村さんから伺っていた。私は、彼女の回文の著書を2冊持っているくらい、福田さんの作品が好きだ。搬入の前日に東京都現代美術館のコレクション展で〈翼あるもの〉を見ることができ、この日、ご本人に会うことも出来た。開廊時刻から当番していて実に運が良かった。

 福田さんは、かなり長い時間、ゆっくりと作品もビデオも見て、上村さんのポートフォリオにあった〈無題(幽霊シリーズ)〉(1991年)を見ながら、この「投石〜東京藝術大学油画第2研究室」展に一緒に参加したことを懐かしんでいた。

 この〈無題(幽霊シリーズ)〉(1991年)が再び話題になったのは、同じ8日の最後の来場者、横湯久美さんとお話しした時だった。

​ 1学年後輩だった横湯さんは当時、この作品を見てとても格好良い作品だと思ったという。「上村さんは、優しいお兄さんのような存在。誰に対しても平等だった」

 多くの方が上村さんを「優しく、平等だった」と懐かしんだ。助手の期間が長く、後輩に慕われていた。きっとそうだったんだろうなと納得した。

​ 横湯さんも東京芸大絵画棟1階エントランスの展示壁面(実は壁画用の壁の裏面)に関わる話をされた。この壁の奥側にあった壁画工房が取手校舎に移った後、そこを油画第2研究室が使用するようになったとのこと。この壁面をめぐる上村さんの試行錯誤については今後も調べていきたいことの一つだ。

​ 話し込んでいると、2021年に開催された「千の葉の芸術祭」のリーフレットを榎倉充代さんが持ってきてくださった。表紙に横湯さんの作品が掲載されていた。

​ それは、新雪の中に潜り込み、そっと後ろに抜け出した行為の実に繊細な痕跡が写された写真作品だった。「死」を意識させるこの美しい写真に、私は思わずゾクリとした。

​ その時、横湯さんはこう呟いた。

 「今まで考えてもいなかったけれど、もしかしたら、私の作品は、上村さんの〈無題(幽霊シリーズ)〉(1991年)に影響を受けていたのかもしれない…」

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〈無題(幽霊シリーズ)〉1991年

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横湯久美〈その時のしるし/There Once Was〉

​遂に最終日

 遂に、展覧会も最終日。7月10日、上村さんの三回忌命日。

 流石にその最終日の来場者は多かった。芳名録記載者数だけでこの日34名。実行委員等スタッフ6名と榎倉充代さんもほぼ一日中ギャラリーに居たので、常にぎっしりと人が居る状態だった。そして、新型コロナ感染症もここにきて夏場の感染者数倍増。出来るだけスタッフは屋外に出て待機し、話すようにした。

 日陰を求めて、隣家との塀際に並んで立ち話をしていたら、「順番待ちでしょうか?」と声を掛けられた。行列のできるギャラリーだ。

 パラソルがあったら良いのにね、などと言っていたら、本当に榎倉家の方がお洒落なパラソルを出して広げてくださった。ただただ感謝です。

 1993年の両国駅構内のインスタレーションを取材し、そのメンバーを翌年からの桐生再演に導いてくださった桐生タイムスの蓑崎昭子さんもこの最終日に来廊、熱心に取材をしてくださっていた。

 私にまで取材をしてくださったので、このHPを見て頂いた。そこで質問、「なぜ、こんなに熱心に上村さんの展覧会に関わっていらっしゃるのですか?」

​ 「その答えは、このHP上で…」などと気の利いたことが言えない私は、長々と要領を得ない受け答えをしてしまった。

 

 芳名録に署名してくださった来場者総数で184名。北海道から沖縄まで、上村さんの先輩、後輩、同級生、教え子、親戚、教授の方々等、多くの方にご来場いただきました。本当に感謝申し上げます。そして上村豊を「識る」豊かな時間を共有させていただきました。

 この後、沖縄での展示が実現できるよう頑張っていきたいと思います。黒川さんが手配してくださった、搬出後の打ち上げも楽しい時間で元気をいただきました。

​ 搬出が終わった、空っぽになったギャラリーの夜景も素敵でした。

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