相反する見解ーレオナルド・ダ・ヴィンチの手記より
才能を増進し覚醒させて各種の趣向を思いつかせる一方法ーこれらの教訓のなかに、瑣末でほとんど噴飯に値するとさえ見えるかもしれないが。それにもかかわらず才能を目覚ませて各種の趣向を思いつかせるのに極めて有益な、思索の新趣向をひとつ加えるのをはぶくわけには行かない。
そしてこの新趣向とはこうだ。君がさまざまなしみやいろいろな石の混入で汚れた壁を眺める場合、もしある情景を思い浮かべさえすれば、そこにさまざまな形の山々や河川や巌石や樹木や平原や大渓谷や丘陵に飾られた各種の風景に似たものを見ることができるだろう。さらにさまざまな戦闘や人物の迅速な行動、奇妙な顔や服装その他無限の物象を認めうるにちがいないが、それらをば君は完全かつ見事な形態に還元することができよう。そしてこの種の石混りの壁の上には、その響きの中に君の想像するかぎりのあらゆる名前や単語が見出される鐘の音のようなことがおこるのである。〔Ash. I. 22 v.〕【岩波文庫(上)p213】
絵画の内容となるあらゆるものをひとしく愛さないひとは万能とはいえないであろう。たとえばある人が風景を好まない場合、かれはこれをば手軽で簡単な調査を以てすれば足りる仕事にすぎぬと評価しているのである。ちょうどわれわれのボティチェルラが、かかる研究は無駄だ、何故かなら、とりどりの色をいっぱいふくんだスポンジを壁にちょっと一投げすれば、壁の上に斑点がのこり、そこに美しい風景が見える、と言ったように。こういう汚斑のうちに自分がそこに産み出そうと思うさまざまな思い付きすなわち人間の顔だの、さまざまな動物だの、戦争だの、岩礁だの、海だの、雲だの、森林だのその他等々が見られるということは正に本当だ。それは鐘の音に似ている、鐘の音でも君の好きなことを言ってるのをききとることができるのである。しかしたとえその汚斑が君に思い付きを与えようとも、それは君に特殊なものを何ひとつ完成する道をおしえはしない。かかる画家は貧弱きわまる風景を描くのである。〔Lu. 60〕【岩波文庫(上)p254】